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    ~丁目の夕日。 

    のち 乾燥機、いきなり活躍か?


     「昭和じゃないんだから。やめてよ~(苦笑)」。
     「バカタレっ!(笑) オレは昭和が大好きなんだよっ!」。

     今朝の夫婦の会話だ。

     朝からイチャイチャしていたわけではない。今日、ウチに新しいテレビと洗濯機がやって来る予定になっていたのだ。「新しいテレビ様と洗濯機様がいらっしゃるのだぞ? 昔で言えば、3種の神器のうちの2つが同時においでになるのだ! いわば、盆と正月がいっぺんに来るみたいなもんだっ! そんな時に、一家の大黒柱がウチにいなくてどうする? テレビ様と洗濯機様を迎え入れるために。オレは今日、会社を休むっ!」と宣言した後の会話が冒頭のものだ(笑)。

     テレビ様と洗濯機様は午前11時くらいにウチに、ご到着になられた(笑)。今は平成の世だ。その御姿は地デジ対応薄型42型液晶であられるし、ドラム式乾燥機付き低音設計9kg洗いであられる。が、お迎えの仕方は昭和の頃と何も変わらない。まずは、今まで我が家のために一生懸命に働いていただいた旧型ブラウン管タイプ様と全自動8kg様に丁重に御礼を申し上げ、お引き取りいただく。そして、新しいテレビ様と洗濯機様に鎮座なさっていただくところを丁寧に掃除をする。次に、夫婦と業者で「あ~でもない、こ~でもない」と両君を設置させていただく。最後に、DVDプレーヤー様、CATVデジタルチューナー様、プレーステーション様、5.1サラウンドスピーカー様との接続配線をさせていただき、テストを重ねる。全ての作業が終わって13時30分。

     やっと。地デジ時代が家にもやって来た(苦笑)。

     それにしても世の中は、どんどん進化していく。洗濯機は洗うモノの重さを勝手に量り、適切な洗剤の量まで調節してくれる。テレビ画像がキレイなのは当たり前、録画もそのままキレイに録れる。説明書を読んで分かったのだが、今のテレビはオンラインで映画等もダウンロードできるので、ビデオ屋さんに出掛ける必要もないらしい。なるほどなぁ。昭和のテレビ創世記の頃は『力道山を家で見たいがためのテレビ』だったのが、今は「TUTAYAに行かないで済むためのテレビ」ということか。

     う~ん。昭和は遠くなりにけり、か。

     でも。これらの機械を使う精神だけは変えずにいたいと〝僕は〟思う。本来、この言い方自体がおかしいのだが。そもそも精神に昭和も平成もないはずだから。でも。「おいおい、その考え方は古いだろう…」「30枚も大枚はたいておきながら、吐くセリフじゃないだろう…」と言われることを承知で書こう。僕の考える生活の精神は、

     「立って半畳、寝て一畳」。付け加えると「納まり切らない、この心」。

     幸いにも。ウチには大きい地デジ対応液晶テレビがある。乾燥機までついたオゾン雑菌処理までできる洗濯機がある。FAX付き子機2個付き電話もある。パソコンもあれば、息子までケータイも持っている。A市なんてマイナーな土地だが、犬を庭で飼える家がある。

     だが。これが当たり前と思ってはいけない。
     〝なくても〟困らないが。〝ある〟のだから使ってやるかぁ~っ! を貫きたい。

     あくまでもモノが暮らすわけでは、ない。人が暮らすのだ。テレビがなくても生きていける。洗濯機がなくても洗濯はできる。車がなけりゃ歩けばいい。電話がなければ、伝えに行けばいい。メールがなければ手紙を書けばいい。大きな家がなくても、寝る場所として1人1畳あればいい。ウチでいえば5畳あれば十分だ。だけれども。心だけは大きく持ちたい。みんなが笑顔で暮らし、励まし合いながら生きていく心だけは5畳の中には納めるのはムリ、なぜならウチは「みんな心が、夢が、大きいからね」。という考え方でいきたいものだなぁ~と心から思う。

     よってもって。最新家電製品様達に囲まれながらも、ウチは昭和っぽく暮らすことを続けるつもりだ。全て今まで通り。息子は、毎朝、家の周りと玄関の掃き掃除をすること。長女はお風呂の掃除を毎日やること。次女は階段の拭き掃除を毎日やること。心豊かに暮らすためには、便利なモノが必要なのではない。人が「やらなければならないこと」をキチンとフツーのこととして〝やる〟ことが必要なのだ。それだけは分かってほしい。

     もう一度、書く。 「立って半畳、寝て一畳。納まり切らない、この心」。ん~、これじゃ足りないなぁ。さらに付け加えよう。「天(コスモ)のために、もう半畳」。さらに、

     「ボール蹴るのに、もう一畳」(笑)。



    野路の花。 

     初夏の陽気。


     猫の額ほどの庭の片隅に。一輪の花が咲いた。

     「持っていきなよ。ほら」と12月に小さな苗を、ある方から手渡された。「ピンクタンポポだよ。カワイイ花が咲くぞ。プランターでもいいけど、できれば、地に植えろよ。野草なんだから。放っておけば、それだけで咲く」。その方の優しい笑顔が眩しかった。

     全国クラスのサッカーは、この笑顔から生まれる。

     2人の娘と3人でじっくりと咲いたピンクタンポポを見る。見ているだけで力の湧く花だ。葉は普通のタンポポなのに、可憐。だが、女々しくない。真っ直ぐに屹立し、日に向かって一生懸命に咲いている。実に雄雄しい。寒い冬にしっかりと根を張り、葉を広げ、そして今、全力で咲き誇る。笑顔で、僕にこう語っているようだ。

     クヨクヨするなって。時季がくれば咲ける。しっかり根を張ってから、咲けばいい。

     我がチームのコーチを続けている。カラダの負担を避けるために楽なところに入った。HコーチとMコーチと一緒に4年生を見ている。よ~く少年サッカーのことを知っている2人と一緒だから、気苦労は少ない〝はずだ〟。カラダを第一に、ゆっくり進んで行きたいと思う。

     一緒にサッカーを〝遊ぶ〟4年生も、まだ冬の根を張る時季にいる。この子達への責任があると思ったのも続けている理由の1つだ。いい意味でも悪い意味でも個性的な子が多い学年。そういう子ども達のスポーツ少年団だ。余計なことを考える人がたくさんいるみたいだが、そんな方には強く言う。「何のためのスポーツ少年ですかっ!」。どうして、逆に手を差し伸べようとしないのか? どうして関わるまいと思うのか? 

     何のためのスポーツ少年団なんだろう? 
     いや、何のためのスポーツなんだろう?

     でも。くだらない大人の思惑など関係なく、我がチームの新4年生はシッカリと根を伸ばしつつある。まだまだ、ケンカも絶えなく、砂遊びをして、僕らコーチに向かって歯向かうようなヤンチャ君たちだが。少しづつだが、僕らの話が聞けるようになってきた。少しづつだが、ボールを運べるようになってきた。少しづつだが、ボールを止めれるようになってきた。少しづつだが、サッカーができるようになってきた。

     そんな彼らがとても愛おしい。

     僕は我がチームに残る。彼らとサッカーを楽しむために。僕は残る。スポーツの本来の意味を守るために。勝てなくたっていいじゃないか。彼らが少しづつでもウマくなってくれれば、それでいい。彼らが6年生になった時。小さくてもいい、庭の片隅でひっそりとでもかまわない。野草ながらの雄雄しさを持ちながら、可憐な花を咲かせられるように。カラダの癒えない僕も慌てることはない。いろいろと問題を抱える大石自体も慌てることはない。

     今は、ゆっくり、ゆっくり根を張ればいい。春がくれば自然と咲ける。

     またピンクタンポポが、優しく笑いながら教えてくれた。
     あの方の笑顔が見えた気がした。

    ピンタン